最近、藤田のコレクションを多数所蔵する美術館を訪れて、学芸員の方とお話をしていて驚いたことがあります。その美術館では、藤田は日本の近代美術の画家ではなく、ジャンルとして西洋美術史の画家としてくくられていました。
一つの説明としては、1920年代のヨーロッパで高い評価を受けたので、座席はあちらの美術の流れの中に用意されているというものです。
もう一つの説明は、1955年に日本国籍を捨ててフランスに帰化し、59年に日本名からレオナール・フジタと改名、名実ともにフランス人になったからというものです。
理屈は分かるような気もしますが、藤田は自分ほど日本の美術を研究し、それを創作に活かした人間はいないという自負をもっていました。自分の師は、セザンヌでもピカソでもなく、鎌倉時代の仏画作者であったり、喜多川歌麿など浮世絵師であると高らかに言い放っています。
前回触れた、『日本の美術史』で保田與重郎は藤田について、次のように書きました。
「私が知ったことは、むしろ感銘したことだが、戦後外国人となり、日本の毛筆の中でも最も毛の少なく短い運筆で描かれた洋画が、中世の信仰だけで生きていた人々の心術や情緒を表現していたことであり、その作品が今日もなお最も生新なことだ」
この指摘は、藤田の作品が、西洋美術の本流が集まった1920年代のパリで、なぜ高い評価を受けることができたのかという疑問への、端的な回答になっていると私は考えています。
つまり、藤田はパリで、キュビスムや印象派の作画法をうまくこなしたのでもなく、ジャパニーズ・スタイルを西洋人好みに安易に翻案したのでもなく、日本美術のキモを堂々とキャンバスの上で繰り広げて見せたから、パリの人々の鑑賞眼に新鮮な感動を与えたのだと考えます。
ではなぜ、日本美術史の中に、藤田の活躍にふさわしい席が設けられていないのでしょうか。
次回はこの問題の本質に切り込んでいきたいと思います。